連載小説 追憶の旅  「第3章  良の苦悩」
                                 作:夢野 仲夫

 良の苦悩41 通算671
 彼女のマンションに入ると、美紀が待ちきれぬように彼を抱きしめた。
 「リョウ君、会いたかったの…。」
 「会社で毎日顔を見ているじゃないか。」
 「会社の顔と二人きりのリョウ君は全然違うの。」
 「当然だろう、会社では給料をもらっているからねぇ。ここでは給料は出ないし…。」
 「ムードがないのねぇ、リョウ君は。レロレロしよ。」 彼女から唇を合わせた。
 今までになくネットリしたキスであった。
 「良い匂い…この匂い大好き…。」

 良の苦悩42 通算672
 やや長いキスを交わして落ち着いたのか、「リョウ君の一面を見た気がしたわ。…」
 「何のこと?」
 「スサーナなんて名前さえ聞いたこともない歌手。でも、マスターが歌うのを聞くと自然に涙が出ちゃった。」
 「驚いたよ、美紀の涙には…。」
 「だってぇ…。わたしの心を歌っているみたいだもの…。」
 「出だしの『あなたゆえ くるおしく 乱れた 私の心よ 』の呟(つぶやく)くような、恨みに似たところもいいし、」 美紀は続けた。

 良の苦悩43 通算673
 「さびの 『わたしはあなたの愛の奴隷、命も真心もあげていたいの あなたがいないと 命までも失われていく砂時計』 の所では自分を重ねてしまったの。」
 まだ、余韻(よいん)に耽(ふけ)っているようであった。
 「アッ、いま気付いたわ、リョウ君は…リョウ君は…。」
 「何?急にどうしたんだ?」
 「美津子さんとの想い出に重ねていたのね。…わたし…わたし…そのことに…今までまったく気付かなかった…。」
 「…。」
 「何かあると、あのお店で…たった一人で…美津子さんを…。」

 良の苦悩44 通算674  
 涙が止まらないようであった。
 「でも、昔のこと…。わたしがまだ五歳の幼い時のこと…。」必死に言い聞かせていた。
 「色んな経験が…今のリョウ君を…今のリョウ君の…。いいの、わたしもう泣かない。リョウ君は自由に生きてこそリョウ君だから…わたし、リョウ君の良さを失わせたくない…。」 娘ほど年の違う美紀が良を支えようとしていた。
 「リョウ君、完熟マンゴー食べよう。」 思い直した彼女は冷蔵庫に向かった。

 良の苦悩45 通算675  
 彼は思わず後ろから美紀を抱きしめた。
 「好きだよ、美紀」 「ホント?」
 「本当だ。」 「絶対にホント?」
 「絶対に本当だ。」 美紀は嬉しそうに振り返った。
 「リョウ君、今夜泊る?」
 「それはダメだ!君をダメにしたくない。」
 「わたし…もう…初めてじゃないから…気にしなくていいの…。」  懇願(こんがん)するような美紀に、
 「また、同じ間違いかもしれないじゃないか?」
 「リョウ君は違う!絶対に彼とは違う!」
 「人は分からないものだ。もっともっと知った方がいい。」

 良の苦悩46 通算676
 「それより完熟マンゴー、早く食べようよ。」
 「うふ、リョウ君が抱きしめるから出せないでしょ。」
 「ああ、そうだった。」 彼女は冷蔵庫から取り出して一口大に切ろうとしていた。
 「ああ、良い匂い。」 彼女の横で包丁さばきを見ていた。
 「わたしのこと?」 
 「マンゴーのことだよ。」
 「バカ!間違えるじゃない、意地悪ねぇ。これどうしたらいいの、上手く切れない。」
 「俺が代わろうか?」
 「リョウ君できるの?」

 良の苦悩47 通算677
 良が彼女に代わった。
 「上手なのね。リョウ君は何でもできるのね。」
 「出来ないのは赤ちゃんを産むことだけ。」
 「それはできなくていいの、わたしがリョウ君の赤ちゃんを産んであげる。うふ。」
 「勘弁してくれ。美紀には勝てない。」
 「美味しいね。」
 「ホントね。もっと安かったら毎日食べるのに…。」
 「君のようなお金持ちでもそんな風に考えるのか?」
 「父はお金持ちでも、わたしはお金持ちじゃないもの。」

 良の苦悩48 通算678
 「このマンションの家賃も、全部お父さんが払ってくれているんだろう?」
 「このアパートは私名義で父が買ってくれたの。だから家賃はいらないの。」
 「エッ、君がこのマンションのオーナーなのか?」
 「サラリーマンと結婚したら家も買えないだろうと、父が買ってくれたの。」
 「でも、広いから電気代もかなりかかるし…。固定資産税だけは父に払ってもらっているけど…。」
 「それ以外は君の給料でやっているの?」
 「当然でしょ。」

 良の苦悩49 通算679
 「いつも高級な服を着ているじゃないか。どうしてそんな余裕があるのか不思議だ。」
 「お家に帰った時、父が買ってくれるの。わたし、いらないって言うんだけど、『若い時しかオシャレできない。それに子とものとき苦労をかけたお返しだ』って。」
 「君は苦労してないだろう。」
 「そんな風に見える?会社が思わしくないときは、母も手伝っていたので弟の面倒はわたしがみたの。」

 良の苦悩50 通算680
 「だから弟はわたしのことを、姉ちゃんママって呼んでいるわ、今でもずっと…。ときどき会社の前に中学生がいるでしょ。あれがわたしの弟。」
 「俺はてっきり君の隠し子かと思っていたよ。」
 「バ〜カ、リョウ君のバ〜カ、中学生の隠し子がいる訳ないじゃない。それだと十歳で赤ちゃんを産んだことになるでしょ。」
 「美紀は美人でおませだから、てっきり…。」
 「その年では無理だったけど、今なら元気な赤ちゃんが産めるわ。どうする?リョウ君。」

 第3章次のページへ(681〜690

       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩


カウンタ
)
                          トップページへ  追憶の旅トップへ