連載小説 追憶の旅  「第3章  良の苦悩」
                                 作:夢野 仲夫

 良の苦悩71 通算701
 「リョウ、良く来るの?このお店。」
 「来ないよ、君のために来たんだ。」
 「でも、初めてじゃないでしょ。誰と来たの?奥さん?」
 「愛人と来たことがある。」
 「エッ、リョウは愛人がいるの?ホント、どんな人?キレイな人?」 美津子は明らかに動揺していた。
 「まるで芸能人のようなキレイな人だ。素人にはザラにいないだろう。」
 「ウソでしょ?リョウ、ウソでしょ!」

 良の苦悩72 通算702
 「本当だ。彼女は俺をひたむきに愛している。」
 「ウソよ、絶対ウソよ!リョウはそんな人じゃない。」 美津子は必死に自分に言い聞かせている。
 「ウソだよ、ミツコ。信じた?」
 「リョウの意地悪!信じそうになっちゃったじゃない。酔いが醒(さ)めちゃった。嫉妬したのよ、リョウ。主人には嫉妬したこと一度もないのに…。リョウは昔からずっとわたしの心を弄(もてあそ)んで楽しんでいるんだから、嫌い!大嫌い! 」 愛おしそうに彼を睨(にら)んだ。

 良の苦悩73 通算703
 「リョウ、聞いて欲しいことがあるの。」 美津子は真剣な表情になった。
 「何?」
 「主人がアメリカに赴任(ふにん)することになったの。」
 「栄転だろう?」
 「知らない。栄転でも左遷(させん)でも関係ないわ。定年まで戻って来られないそうよ。」
 「大変だなぁ。」
 「リョウ、わたしどうしたらいい?アメリカについて行きたくないの。」
 「だって、リョウに、リョウに会えなくなるから…。」

 良の苦悩74 通算704
 「リョウと会えない人生はイヤ!リョウとこうして話したり食事をしたりしたいの。」
 「…。」
 「リョウ、わたしに『ミツコ、行くな!アメリカには行くな!』と言って。お願い!」
 「…。」
 「リョウだって、家庭がうまく行ってないでしょ。」
 「エッ、何で分かるの?」
 「リョウのことは分かるわ。わたしを…わたしを…主人から奪って!結婚してくれなくてもいいの。愛人でもいい、リョウの傍(そば)に居たい。わたし、何もかも捨てる!何もいらない!リョウだけ居ればいい!」

 良の苦悩75 通算705
 彼は何も答えられなかった。会ったときの美津子の思いつめた表情の原因がやっと理解できた。
 いま手を差し伸べれば、二十年もの間、求めて止まなかった美津子が手に入る。
 だが、何かが彼を躊躇(ちゅうちょ)させた。
 「俺はどうしていいか分からない。俺だって美津子のためならすべてを捨てられる。しかし、何か起こりそうで…。」
 「何かって何?」
 「分からない。でも、俺の人生を変える何かが起こりそうな気がしてならないんだ。」

 良の苦悩76 通算706
 「わたしが手に入りそうなときに、リョウは指の間からすっと抜け落とさせる。二十年前もいまも同じ…。ホントは、リョウはわたしなど必要じゃないのでしょ。」
 「違う!それは違う!ホントはミツコを奪ってしまいたい。いますぐにでも…。」
 「じゃ、リョウキスして。いますぐキスして。」彼女は目を閉じた。
 二十年前の記憶が鮮明に蘇(よみがえ)った。彼女の甘い唇の感触は、忘れようとしても、決して忘れられなかった。

 良の苦悩77 通算707
 「ミツコ、ここはダメだ。仲居さんが来るから…。」
 「わたし見られてもいいもん。」
 「ミツコはまるで子どもみたい。」
 「だってぇ…。」
 「楽しみは後で…。」
 「ホント、リョウ、ホントね。リョウは昔から身をかわすのが上手いから信用しないわ。胡麻化されないからね、いい?」
 「分かったよ。でも、せっかく無理をしているのに、ミツコは美味しそうに食べてくれないじゃないか。」
 「キスしてくれないリョウが悪いのよ。」

 良の苦悩78 通算708
 「さすがにリョウが選んだお店ね。イセエビもお肉も美味しいわ。」 機嫌を直して食べる美津子。その白い肌がアルコールで微かに赤く染まっている。
 四十を過ぎているとは、到底思えない陶器のような手にも成熟した女の色気を感じさせた。
 「リョウ、食べさせてあげる。」 向かい側の席から良の方に移った。
 「あ〜んして、リョウ。」  箸で肉を良の口に運んだ。
 「恥ずかしいじゃないか。」
 「照れているの?」

 良の苦悩79 通算709
 「A5の肉はさすがに美味しいね。それにミツコが食べさせてくれるから…。ご主人にもするのかい?」
 「バカねぇ、するわけないでしょ。」 
 「ホントかなぁ?」
 「妬いているの?
 「妬いてはいけない?」
 「嬉しいわ、こんなおばさんに焼き餅を焼いてくれて…。」 良は彼女の透き通るような白い手にキスをした。
 「ダメでしょ、こんなところで。」先ほどと矛盾(むじゅん)したことに気付いたのだろうか、美津子はバツが悪そうに笑った。

 良の苦悩80 通算710
 彼は堪らず首筋に唇をつけた。
 「バカ、感じるじゃないの。仲居さんが来たらどうするの。」
 「仲居さんに見せつけてやるんだ。」
 「相変わらす子どもね…。」 先ほどと全く逆の立場に立っていることに気付いた二人は声を立てて笑った。
 「リョウと居ると楽しいわ。ある日、目が醒(さ)めたらわたしの主人とリョウが入れ替わっていたらいいのに…。」  あり得ない奇跡を願う少女のようであった。

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       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩

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