連載小説 追憶の旅     「第3章  良の苦悩」
                                 作:夢野 仲夫

 良の苦悩221 通算851
 「ミツコ…この幸せはいつまで続くのだろう?」
 「なぜ、そんなことを言うの?なぜなの?」
 「俺たちは人の倫(みち)を外れてしまった。俺のせいで…。君への未練と執着が、そうさせてしまった。こんな幸せが続くだろうか?」 風呂から上がった二人はベッドに横たわっていた。
 「…わたし…リョウから離れない!リョウを二度と離したくない!」 美津子は良の胸にすがった。

 良の苦悩222 通算852
 「周りから何を言われてもいいの。リョウがいればいいの…。」 良とて気持ちは同じであった。しかし、どこかにそれを押しとどめる自分がいた。
 失う物の大きさだけでなく、得体のしれない不安があった。幸せを感じるたびに、その中に潜(ひそ)む危(あや)うさと儚(はかな)さを思わずにはいられなかったのだ。
 「リョウは、またわたしを自分の掌(てのひら)からこぼしてしまうの?リョウ、わたしに女の悦びまで教えて…。」
 「…。」

 良の苦悩223 通算853
 「お願い、リョウ。わたしを今度こそ離さないで!わたし、わたし…。」後は言葉にならなかった。美津子の思いは切ないほど彼の胸に響いた。
 「ミツコ、俺のミツコ…。」二人はまるで恋の情熱で燃え上がった若者のようであった。 人の倫(みち)とは何であろうか?恋とは何であろうか?幸せとは何であろうか?
 彼の頭の中には様々な疑問が生じては消えた。

 良の苦悩224 通算854
 ふと、悲しそうに彼を見つめる恵理の顔が彼の頭をよぎった。なぜか、二人のたおやかな生活が浮かんでは消えた。さらに、真正面から彼にぶつかる美紀のひたむきな姿も脳裏を離れなかった。
 彼らとの別れ、そして妻との別れも覚悟しなければならないかもしれない。一つを得れば失うものがあることを、彼は自分の人生で実感していた。
 しかし、一方で失うことに安堵する自分をも感じていた。今までのしがらみを捨てた人生を求めていた部分もあったのだ。

 良の苦悩225 通算855
 「失ってもいい物を失わず、失ってはならない物を失う」−彼にとって、何が失ってもいい物なのか、何が失ってはならない物かの区別さえ分からなかった。
 「リョウ、わたし、アメリカには行きたくない…。リョウと居たい…。リョウ、ときどきどもいい…リョウを困らせたくない…。」美津子は下唇を噛んでは涙を流し続けた。
 彼女の胸に浮かんでいる鎖骨(さこつ)が、良の脳裏に焼き付いて離れなかった。



   
(本文) フランス料理「右京」

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 「最近、部長はコソコソしているらしいですね。恵理から情報が入っています。だから、食事に行きましょう。」
 「だから、とは何だ。何の脈絡(みゃくらく)もないじゃないか。」
 「相変わらず細かい人。部長たるもの細かいことを言ってはいけません。」美紀の変わらない態度に救われた。
 二人きりの時に彼の腕の中で甘える彼女と、会社での美紀が同一人物とは思えなかった。
 「恵理、行くよ。準備できている?」

 良の苦悩227 通算857
 仕事が終わる時刻近くになると、美津子からときどき電話がかかった。良の近くの席の恵理はその相手が美津子であることが分かっていたようだった。しかし、彼女は良を問い詰めることはなかった。
 「そうだね、話したいこともあるし…。」恵理は顔色を変えた。彼女にとって悪い知らせではないかと感じたようであった。
 美紀は一瞬顔を曇らせたが、快活さを失わなかった。

 良の苦悩228 通算858
 「部長のことだから大した話ではないでしょ。」わざと虚勢(きょせい)を張っているようでもあった。
 「今日はどこに連れて行ってくれますか?」
 「私が一人の時に行くフランス料理の店はどうかね?」
 「いつも一人で行くの?セコッ!でも、嬉しい!ねぇ、恵理?」恵理は小さく頷(うなず)いた。
 「どんなお店ですか?」彼の話が気になりながらも、恵理も自分を必死に押さえているようであった。
 「小さな店で、三十代後半のシェフがやっている店でね。私の隠れ家…。」

 良の苦悩229 通算859
 「ご夫婦でやっている。切れ味のいいフランス料理を出してくれる。」
 「ふ〜ん。」美紀はため口になっていた。
 「特に魚料理は抜群だ。今まで一度も外れたことはない。」
 「ホント?」二人は不安を見せず平静さを装(よそお)っていた。
 「フランス料理 右京」はメイン通りから入ったところにあった。 ホール担当の可愛い奥さんは目を丸くしていた。いつも一人でやってくる良が、若い美人の女性二人と来店するとは予想外だったのだろう。

 良の苦悩230 通算860
 厨房のシェフも挨拶に顔を出した。彼もまた二人の美しさの目を見張った。
 「珍しいですね、柳原さんが…。」言葉を濁(にご)した。二人は店内を眺めた。
 「部長、オシャレなお店。部長のようなオジサンには似合わない。」早速、美紀は良にため口をきいた。恵理は軽く微笑んだ。
 「美紀!」
 「いいの。本当のことだもの、ねぇ、部長。」
 「オジサンはないだろう。傷ついたよ、ナイーブなわたしだからね。」恵理は身体を震わせて笑った。

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       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩

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