連載小説 追憶の旅     「第3章  良の苦悩」
                                 作:夢野 仲夫

   
(本文) スナック「佳世(かよ)」

 良の苦悩251 通算881
 良は一人でスナック佳世(かよ)にいた。美津子と身体の関係を持ってから、周辺では変化が起きつつあった。
 もともと上手く行ってなかった夫婦の関係も、さらに冷えつつあった。妻が何かを感じているようだった。
 また、恵里の彼に対する接し方が、以前とは変化があるような気がしてならなかった。 しかし、彼にはそれが当然に思われ、逆に安心感さえ与えた。

 良の苦悩252 通算882
 「俺には恵里に愛される資格がない。」−現在の状況がむしろ正常に感じられたのだった。
 先日、朱里(あかり)ときた時にキープしていたウイスキーの水割りを、カウンターの隅で、一人で飲んでいた。
 物思いに耽っている彼に、ママは話しかけなかった。さりげない気配りはするが、カラオケに興じている、若い二人連れの男性客の相手をしていた。
 「部長、やはりこのお店に…。」入って来たのは美紀であった。

 良の苦悩253 通算883
 「どうしてここが?」
 「花村部長に聞きました。『最近、柳原は冷たくて、一人で飲みに行っている。今日も佳世という店に一人で行ったようだ。』とおっしゃっていました。」
 「あのオシャベリめ。そんなことまで君には言うのか?」
 「はい、お気に入りですから…。うふ。」すでに美紀は少し酔っていた。
 「わたしも飲ませて頂いていいですか?」隣に座った美紀はママに良と同じ水割りを頼んだ。
 先ほどからカラオケを楽しんでいた二人連れの客は、芸能人と見間違うような若い美人の来客に顔を見合わせていた。

 良の苦悩254 通算884
 ママはすぐに気を利かせて、彼らにカラオケで歌わせて、盛んに手拍子をとった。そのため、良と美紀は安心して話せた。
 「バカねぇ、部長は。バカ正直に話せばいいってものじゃないでしょう。恵里は落ち込んでしまって…。部長を許せないんでしょう。」
 「いや、これでいいんだ。俺には君たちに合わせる顔がない。これで良かったんだ。恵里も目が覚めただろう。」

 良の苦悩255 通算885
 「部長は気が晴れても、恵里は辛いでしょ。好きな男性に、浮気をあからさまに告白されては…。部長をとても尊敬していたので、余計に辛いと思うわ。」
 「止めてくれ。そんな話をしにここまで来たのか?」
 「はい、部長を責めに来ました。恵里を傷つけないで下さい。」
 自分の気持ちを捨てて、あくまで恵里を庇(かば)う美紀。 若い二人の女性の気持ちをズタズタにしている、自分の存在自体に深い疑問が生じてならなかった。

 良の苦悩256 通算886
 「お嬢さん、お願いね。」と言って、キープしたウイスキーとミネラルウォーターと氷を美紀の前においていた。美紀は良と話しながら、自分で何杯も入れては飲んでいた。
 「紺野君、そんなに飲んで大丈夫か?少し酔っているじゃないか。」
 「いいえ、平気です。わたしは酔っていません。…恵里は純情だから傷つき易いのよ。わたしは平気…。この鈍感男!」
 「本当に大丈夫か?飲み過ぎだぞ、紺野君。」
 「いいの…。わたし、今日は飲むの…。」

 良の苦悩257 通算887
 アルコールがかなり回っているようだった。この店に来る前にも、かなり飲んでいたようだった。 しかし、彼女は飲むのを止めなかった。
 「わたしにも歌わせて、ママさん。グラシェラ・スサーナのシバの女王をお願いします。」 若い二人の客は、仲間が増えたと感じたのだろうか、大喜びしている。
 あなたゆえ くるおしく 乱れた 私の心よ 
 まどわされ そむかれて 戸惑う 愛のまぼろし  
 囁(ささや)くような、美紀の甘く切ない歌声が良の耳に入った。

 良の苦悩258 通算888
 さびの部分では彼女の情念を激しく表すような歌声に一転した。  
 私はあなたの 愛の奴隷 命も真心も あげていたいの 
 あなたがいないと 生きる力も 失われていく 砂時計…   
 美紀の歌を聞いたのは初めてであった。美紀の切ない気持ちが乗り移っているようであった。
 最初囃(はや)し立てていた客も真剣に聞いていた。美紀の目からは涙が流れた。
 「会員制クラブ 志摩宮(しまみや)」でマスターの歌を聴きながら涙を流したときと同じように…。

 良の苦悩259 通算889
 良は黙って聞いていた。美津子と再会し身体の関係まで再び始まった今、周りの人を不幸に陥れていることに、己の持つ業(ごう)の深さを感じざるを得なかった。
 歌い終わってマイクを置いても、美紀は涙を流していた。
 「俺が彼らの周りから消えればいいんだ。」−彼は自分の人生の転機をますます強く意識した。
 「もっと、飲みたい。」美紀はウイスキーを注ごうとしてコップを倒した。慌てて近くにあった布巾で拭こうとしたが、良のズボンの上に少し水がこぼれた。

 良の苦悩260 通算890
 「ごめんなさい、部長。」必死に彼女はハンカチで彼のズボンの水をふき取ろうとした。
 「いいんだ、君の方こそ大丈夫か?」
 「はい、わたしは大丈夫です。迷惑をかけました。わたし、部長のお邪魔をしてしましました。これ以上いても迷惑をかけるだけです。お先に失礼します。」目の涙は乾いてはいなかった。
 彼女はよろめいた。かなり酔いが回っているようだった。 ママが彼女を送るように良に目配せした。

 次のページへ(891〜900)

       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩

カウンタ

                             トップページへ  追憶の旅トップへ