食べ物評論家田部亭 空家 (たべて からいえ)の
  その17「スーパー銭湯 雲母の里」

 黒瀬町の閑静な場所にある「スーパー銭湯」である。3,40年前には銭湯に行くと、大きな壁画があったが、現在はほとんど見受けられない。富士山の壁画とケロヨンの洗面器は銭湯の必需品?であった。ここ「雲母の里」には数少ない風呂絵師「丸山清人」氏による壁画が、温泉のゆったり感をさらに高めてくれる。

 ところで、年を取れば物忘れがひどくなる。それは仕方のないことだが、物忘れも内容によってはすぐに忘れることと、決して忘れないことが私にはある。つまり、忘れ易いことと忘れにくいことが歴然として存在するということだ。

 しかし、年を取って物忘れがひどくなっても、周りからは決して責められない。逆に心配してもらえるくらいである。たとえ大切なことを忘れていても「年を取っているから…」と周りはいたわってくれる。若い人が同じことをすると「アイツはバカだ!」ということになる。私をいたわらないのは、デリカシーのかけらもない私の弟子くらいである。

 さて、最も忘れるのは何であろうか?それは友人からの借金である。それも金額が大きいほど忘れる。誰かに借りたかを忘れるだけでなく、借金があることさえすぐに忘れてしまう。

逆に忘れないのは人に貸したお金である。10年前に貸した10円でもしっかりと覚えている。私の元来の記憶の良さがこういうところに強く残っているのであろうか?

 次に良く忘れるのは妻の顔である。それ以前の問題として、私に妻がいるのかどうかも忘れる。街で若くてスタイルが良くて性格が良さそうで賢そうな美人の子を見かけたら、この子が妻だったかなと間違うこともある。

 妻も私と同じように物忘れがひどいのか、毎月くれる小遣いを良く忘れる。だが、私が結婚前に約束した「大きなダイヤモンドを買って上げる」という約束は今でも覚えているのにぃ。

 また、高い仏蘭西料理をおごることを約束していても、いつの約束だったか、どこに行くのだったか、忘れるなど日常茶飯事である。さらにそんな約束をしたことすら忘れる。たとえ食事に行っても、家に財布を忘れていたなど特に不思議なことではない。年を取った者には良くあることである。

 そんなときはもちろん誰かが支払いをしてくれる。年寄りをいたわる、古き良き日本の伝統の思いやりなどまったく持ち合わせていない弟子たちは、まるで鬼のような、今にも食い殺しそうな形相で私を責める。「空家(からいえ)センセ、立て替えておきますから、今度ゼッタイに払って下さいよ!」

 しかし、エンマのような形相で私を責めてもまったく無駄である。なぜ、私が後で払うことになったのか、そもそも仏蘭西料理を食べに行ったことすら記憶の片隅にもない。さらには何で怒っているのかさえ忘れるのであるから…。

 こういう問題にしてもすべてを忘れるわけでなない。「うどんをご馳走してくれれば、この前の立て替えはチャラにします」という約束は100%に覚えている。私がうどんが大好きだからであろうか?

 お年玉をあげるのを忘れるのも普通である。決して特別なことではない。正月にお年玉をあげる習慣があることを思い出すだけで十分1年はかかる。記憶をたぐって思い出している間に次の正月がやってくる。

 私は決してボケてはいない。「来年の正月にはお年玉を上げる」と言った妻の言葉はしっかりと覚えている。数年前にも同じ約束をしながら、もらえなかったことさえしっかりと覚えているくらいだ。この違いは何であろうか?

 哲学的な思惟を巡らさなければ決して結論がでない難解な問いである。「雲母の湯」に入って、遠赤外線の効用を期待しながらじっくりと哲学的な思惟を巡らせよう。

 広島県広島市黒瀬町兼広885−6

 遠赤外線放射率が高いという黒鉛珪石(ブラックシリカ) を使用しており、その効用をより高めるために39.9度の湯温を保っている。決して大きな設備ではないが、多くの温泉にある設備はすべて整っている。駐車場も広く、遠くからの客もいるようだ。

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