連載小説 追憶の旅 「第1章  美津子との再会」

                                   作:夢野 仲夫
              別れの日
 美津子との再会21 
 「ミツコ、これで別れにしよう。このままずるずる付き合っていても、僕は君とは結婚できないから…」
 「分かっているわ、リョウ。お父様も…お母様も…」
美津子は言葉を濁した。彼らが絶対に二人の結婚を認めないことは誰の目にも明白だった。自分の気持ちを通しきれないことも美津子は分かっていた。親を捨てられない美津子の優しさが、二人の別れの原因だった。そのため別れを切り出したのは良なのに、申し訳そうなのは美津子の方であった。

 美津子との再会22
  しかし、別れは決して美津子のせいではないことを、彼は誰よりも分かっていた。自分のプライドとコンプレックスであることを…。無理やり彼女を両親から奪えば、彼女は黙って自分についてくるだろうことを…。また、何事にも強引な自分が、結婚にだけは強く出られない弱さが本当の原因であることを…。
「ミツコ、本当にこれでサヨナラだね…」

 美津子との再会23
 「…ミツコ…先に帰って…」
 良は意を決して言った。いつまでも一緒にいたい気持ちを必死に押し殺して…。
 「もう少しだけ、ここに居させて…」
これだけ言うのが精いっぱいであった。美津子の目はかすかに潤(うる)み、今にも泣き出しそうであった。喫茶店を流れる音楽も、他のお客さんの話し声も、彼らの耳には入らなかった。美津子の白い手が彼の手の上にそっと伸び、いとおしむように重ねられた。何度も何度もからみ合った手の上に…そして美津子の身体のすべてを知った彼の手の上に…。

 美津子との再会24
 良は小雨の中をひたすら歩いた。彼の目から止めどもなく涙が溢(あふ)れた。思い出が走馬灯のように彼の頭を駆け巡(めぐ)った。互いに何の経験のなかった二人の最初の夜のことも…。
 「赤ちゃんができたら恐いわ…」
何度も何度も彼の腕の中で訴えた美津子。その彼女とは二度と合うことが許されなくなった。降り始めた二月の冷たい小雨は良の下着にしみ込み、身体の芯まで冷やした。

 美津子との再会25  
 その夜、彼は飲めない酒を浴びるように飲んだ。美津子が何回か訪れたことのある彼の部屋には、彼女の香りがわずかに残っているように感じられた。しかし、それは幻(まぼろし)だったかもしれない。
 そのとき、誰が聞いているのか、「グラシェラ・スサーナ」の「サバの女王」がどこからともなく聞こえてきた。
 ……私はあなたの 愛の奴隷(どれい)  命も真心も あげていたいの
    あなたがいないと 生きる力も 失われていく 砂時計… 
それもまた、幻(まぼろし)だったかも知れない。

 美津子との再会26
 女には振り返る過去がない。別れた瞬間には次の人生に向かって進む。その時には、昨日までの過去は、遥(はる)か遠い夢の世界になっている。それに反して、男はずっと過去に縛(しば)られる。良がまさにそうであった。
  「美津子も自分との過去は遠い夢の世界になっていたのだろうか?」
いつしか良は自分の世界に入っていた。目の前に彼女がいることさえ忘れて…。

 美津子との再会27
 「リョウ、どうしたの?黙り込んで。」−彼女の言葉で我に返った。
 「色んなことが思い出されて…」
 「色んなことって?」
 「ミツコとの楽しかったデートのこと。それに、…」
 さすがに良は言うのを憚(はばか)られた。 美津子もあの初めての日のことを思い起こしたのだろうか、まるで少女のように頬を赤らめた。そして、彼を恥ずかしそうに見つめた。

 美津子との再会28
 彼女は話題をわざと変えた。
 「ときどきリョウのこと思い出すの。だって、リョウって、私をいつも困らせてばかりいたから。」
 「ウソだ!俺、ミツコを困らせたこと一度もないよ。」
 「食事をするときでも、私が何を食べたいなんて聞いたことなかったでしょ。それに私の都合も聞かずに、勝手にデートの時間も決めていたじゃない!」

 美津子との再会29
  思い起こせばその通りだったかもしれない。彼は常に自分のペースで何事も決めていた。しかし、結婚だけは決められなかった。美津子の今の生活を守れないこともあったが、それ以上に彼自身のコンプレックスが強く働いていた。そのことは決して口に出さなかった。万一、それを彼女に告げても、彼の気持ちを到底理解はしてもらえなかっただろう。

 美津子との再会30
  「でも、リョウは私に色んなことを教えてくれた。私のまったく知らなかった世界…。私をパチンコまで連れて行ったのもリョウ、あなたよ。覚えている?」
  「覚えているよ。でも、ミツコも楽しそうだったじゃないか?」
  「パチンコ屋なんて、ずっと入るのが恐い所だと思っていたのに、リョウは私を無視して入って行くんだもの。仕方なくついて行っただけ…」

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        第1章 美津子との再会(BN)
 (0001〜) 偶然の再会「イタリア料理まちかど」
 (0021〜) 別れの日
 (0034〜) 家族の留守の夜
 0047〜) 初めての衝撃的な出会い
 (0053〜) キスを拒む美津子
 (0070〜) 恵里と美紀との食事 フランス料理「ビストロ シノザキ」
 (0091〜) 一人で思いに耽る良「和風居酒屋 参萬両」
 (0101〜) 良に甘える恵理「おでん 志乃」
 (0123〜) 恵理・美紀と良の心の故郷「和風居酒屋 参萬両」
 (0131〜) 恵理と食事の帰り路「おでん 志乃」
 (0141〜) 再び美津子と出会う「寿司屋 瀬戸」
 (0161〜) 恵理のお見合いの結末「焼き肉屋 赤のれん」
 (0181〜) 美津子と二十年ぶりの食事「割烹旅館 水無川(みながわ)」
 (0195〜) 美津子に貰ったネクタイの波紋「焼き鳥屋 鳥好(とりこう)」
 (0206〜) 美紀のマンションで、恵理と二人きりの夜
 (0236〜) 恵理と美津子の鉢合わせ「寿司屋 瀬戸」
 (0261〜) 美津子からの電話
 (0280〜) 深い悩みを打ち明ける美津子「レストラン ドリームブリッジ」
 (0296〜) 飲めない酒を浴びるように飲む「和風居酒屋 参萬両」
 (0301〜) 美紀のマンションで目覚めた良


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