連載小説 追憶の旅  「第3章  良の苦悩」
                                 作:夢野 仲夫

 良の苦悩61 通算691
 二人は唇を重ねた。美津子の涙が頬を伝わり、彼の唇を濡(ぬ)らした。
 「わたしは…リョウの帰りを待つの。夕食の支度を済ませ、お風呂の用意をして…。」
 「疲れたリョウが帰ると一緒にお風呂に入るの。」 「ミツコ…。」
 「わたしがリョウの身体を隅々まで洗ってあげるの。リョウはじっとしているだけでいいの。」
 静かな山に聞こえるのは美津子の忍び泣く声だけだった。
 「ミツコ…。」

 良の苦悩62 通算692
 「今は料理できないけど、それまでには勉強しておくの。リョウの好きな物は何でもできるようにしておくわ。参萬両のママさんにも教えて貰うの…。」  美津子の涙は止まらなかった。
 別れを知っているからこそ、その幻想はより膨(ふく)らんでいるのであろうか?
 「リョウ、わたしのリョウ、誰にも渡したくない。永遠にリョウはわたしのもの。どんなことがあってもリョウはわたしのもの。」

 良の苦悩63 通算693
 たまらず良は彼女を抱きしめた。彼の腕の中で美津子は泣き続けた。遠くない日に去っていく美津子に強い執着を感じた。彼は胸をまさぐり美津子の身体を求めた。
 大胆にも彼女は自らショーツを脱いで彼を受け入れた。別れを意識するからこそ、二人は激しく燃えた。
 「リョウ、別れの日は来ないよね、絶対来ないよね。」  夢とも現(うつつ)とも分からない世界に二人は漂(ただよ)った。

 良の苦悩64 通算694  
 想い出を語っている間、美津子は頬を赤らめていた。
 「リョウ、今の生活は幸せ?」 運転している良を見つめていた美津子が、突然尋ねた。
 「分からない…。」
 「今の生活を続けたいと思う?」
 「イヤ、思わない。何かが一つずつ壊れて行くような…。」
 「わたしと同じね…。リョウは…なぜ…わたしを…両親から奪ってくれなかったの…。」
 「できるわけがない。俺のような庶民が、君のようなお金持ちを…。」

 良の苦悩65 通算695
 「リョウのバカ、そんなこと関係ないのに…。」
 「君は今の俺を見て言っているだけ。どんなに苦労するか分からなかったあの頃、お嬢さまで育った君に苦労をさせることなんかできなかった。」
 「リョウといれば、お金なんて無くても幸せだったのに…。」
 「お金が無いことは抽象的ではないんだ。ミツコは抽象的に考えているだけだ。」
 「どういうこと?」

 良の苦悩66 通算696
 「ミツコは高級な和服を着ているのを当り前に思っている。その和服だってサラリーマンの給料の数カ月分はするだろう。とても庶民には買えない。食べ物もサラリーマンには普段食べられない物を普通に食べている。」
 「寿司屋 瀬戸なんて誰でも行ける店じゃない。」
 「こんな和服なんていらない。食べ物なんてどうでもいい。リョウがいればいいの。」
 「短い間なら我慢もできるだろう、それが一生続いたらどう感じるだろうか?」

 良の苦悩67 通算697
 「子どもにも辛い思いをさせることになる。」
 「リョウとわたしの子どもだったら…」
 「ミツコ、俺は、俺は、君と別れた後…、憎しみだけが俺を支えていた…。」
 「わたしを憎んでいたの?」
 「違う!君じゃない!住む世界の違っていたことや、それを産んでいる社会を憎んだ。憎しみだけが俺の生きる支えだった。 」彼の目からは涙が流れ落ちた。今まで抑えていた感情が一気に湧き出た。

 良の苦悩68 通算698
 「俺の弥勒菩薩を奪った社会を恨んだ。仕事をしながらも心の中はすさんでいた。」
 「リョウ、泣かないで。お願い。リョウ泣かないで。そんなこと、わたし知らなかった。リョウは好きな人をすぐに見つけて、幸せに生きていると思っていた。リョウはモテるから…。」
 「俺は女々しくて弱虫だ。器用に立ちまわれない。ずっと君の幻影を追っていた。」
  「リョウ、泣いていると笑われるわ。」  二人は「料亭 古都(こと)」の駐車場に着いていた。

 良の苦悩69 通算699
 一つ一つの部屋は個室になっていて、海鮮と肉を網で焼いて食べる店であった。高級魚介類と肉はブランド牛の認定のものを置いていた。
 和服姿の美津子は、高級店でも場違いなほどの上品さと美しさがあった。
 「リョウはどうしてこんないいお店を知っているの?」
 「人に聞いたり雑誌を見たりインターネットでも調べている。気に入るのは二、三十軒に一軒だけど…。」

 良の苦悩70 通算700
 「うふ、リョウ君の味覚は胡麻化されないから。お店の人にとってはイヤなお客さんかも。」
 「ミツコ何か飲む?俺は運転するから飲めないけど、ビールそっくりのソフトドリンクで付き合うよ。」
 「じゃ、頂こうかしら。飲んだ勢いを借りてリョウを誘惑しちゃおうかな?」  流し目で、ゾクッとするほどの色気を漂わせた。
 伊勢エビ、生きたホタテ貝など新鮮な魚介類と霜が入った肉が運ばれた。

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       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩

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